■■Report #104 Report index

2012年、大河ドラマ平清盛。
広島県には、そのゆかりの地がたくさんある。

2012年はコレをシリーズでお送りしようと思う!

清盛シリーズ第二弾は、平家谷!

広島県福山市から沼隈方面に県道72号線を走って
いかにも平家に関係ありそうな名前である。

福山市沼隈町中山南にある横倉地区。
平安時代末期、一ノ谷の戦いで討ち死にしたとされる平通盛(みちもり)とその妻、小宰相(こざいしょう)たちが逃げ延びたとの伝説が残り、平家谷と呼ばれている。



これは是非行かねば!と、へなちょこ歴史探索隊の3人は出かけた。


矢印の通り、左折して平家谷方面に向かうと、八日谷ダムがある。

八日谷、という地名は、通盛が屋島の合戦から落ち延びる途中、この谷に八日潜んでいたことから、八日谷の名がついたといわれている。

ここで我々は、

信じられない光景を目の当たりにした…!
(あの読み方で)

拡大。

ダムの脇にある赤い柱の看板。
NHK大河ドラマ平にあやかり、町おこしの一環で最近、看板を新調したらしい。
読んでみる。


 
 刀岩(天然記念物)

  高さ一間半(二・七m)幅一間(一・八m)ぐらいの切り立った岩が
  「刀岩」と伝えられている。
  この谷の奥へ逃れていく平通盛が、己の武運を試そうと、この岩に
  刀を打ち立てたという。岩にはそれを裏書するような形の窪みと、
  岩をそいだような痕が遺っていた。
  昭和三十八年のダム建設により、この堤防の底となった。



そそそそ底となった?!

天然記念物がダムの底に!!!
そんなことしちゃっていいの?!そんなものなの?!ほら、ちょっと移動させるとか、写真撮るとか。
昭和38年にして他に手がなかったのだろうかと思うが、この堤防の底に沈んでいる…方が、ロマンがあって良いのかも、と思うことにしよう。うん。


それから少し走ると、赤幡神社がある。

看板には、『この谷では、平家の旗印の赤を尊ぶ風習があり、古くから白いものを嫌った。現在でも氏神の御幣や垂に赤い紙が使われており、その名残を忍ばせている。』とある。
「白鷺さえも舞い下りず」と言われているそうだ。
この神社には、平家の赤幡(あかはた)が祀ってあるそうだ。
本殿のしめ縄にも、拝殿のにも赤い垂が使われていた。

隣には大きな杉の木が。
さらにその横では、まだ盛りの頃ではなかったが、やはり赤い「平家椿」も咲き始めていた。

そして我々は再び、走り出す。
そしてまたちょっと困った看板を目にした。

←この案内看板に対する例の赤い説明看板がそばにあった。
読んでみよう。


鐙の峠(たお) 平氏の武将が険しい坂道を登るとき片鐙を落としたため「鐙の峠」と名付けられたといわれている。
乗り越え 鐙の垰への途次、平氏たちが急な坂道を乗り越えて行ったことに、由来する。大原氏邸前の坂を示す。
貴船神社
湯船神社
貴船神社、湯船神社には兵船の模型が祀られている。
見張り所 平通盛は追手の侵入を警戒し、この谷に通じる峠道や要所に「見張り所」をおいたと伝えられている。
加藤邸あたりがそのひとつと云われている。

そしてぐるりと歩いてみたけど、見つからない、大原氏邸。…そして加藤邸。
まさか一軒ずつ表札見て歩くけと?(不審者です)
どこ!どこなの、大原邸!そして加藤邸!!!

大原さ~ん!加藤さ~~~~ん!!!高木さぁーーーーーん!(←ダレ?!)

気を取り直して。
せっかくなので湯船神社を探してみることに。

本当にこの道で合っているのか、何度も自問自答したくなる素敵な林道を奥に進むと、その小さな神社はひっそりと立っていた。


「平家谷の出入りを守る神社」

とだけ書かれていた。
…なんともアバウトな説明である。


元は藁葺きだったのだろう、トタン板が被せて
あった。
でもね、あまったトタンを立てかけてるのはちょっと微妙(笑)
こんなところに誰か他に来るのだろうかと心配したが、芳名録(何かの図面の裏紙を綴じてあった 笑)をパラパラめくるとけっこう遠方からたくさんの人が訪れていることが判明。これも清盛効果?!
せっかくなので、ワタシも足跡を残しておいた。

素敵な林道を引き返し、また元の道へ戻ると、さらに奥へ進む。
少し道が開けたところに再び看板が。
つばき園、福泉坊、広場、弓場の案内が。
弓場
(射場)
平家一門が来るべき合戦にそなえて武術の鍛錬をした場所で、この射場から西方の「的場」をめがけて弓を射ったとも伝えられている。現在の岡崎邸あたりをさし「射場」と呼んでいる。
平氏にかかわりのある人が住んでいた館があったといわれ、この館を中心に「殿方の前」(御方の前ともいう)「前の坂」「馬通し」などの場所がある。辻原邸付近をいう。
広場 平氏の武将たちが馬術などの武術鍛錬をした場所とされ、石亀谷あたりをいう。
そういえば、来る途中で「的場」ってあったな…と思ったが、遠すぎるので違う的場なのかも。
▲射場 ▲射場からの眺め ▲殿方の前
「弓場」は、結構急な坂道の上にあった。
岡崎さんの家は分からなかった。
「殿方の前」は、木がぽつんと立つ空き地の一角に標識が立っていた。
すぐその近くに「前の坂」の標識も立っていた。

辻原さん(以下略)。
ちなみに福泉坊は、高台にあるお寺で、平通盛の遺子秀盛から十五代目の秀裔が、平家歴代の菩提を弔うために建立したものだそうだ。
境内には通盛の妻、小宰相の墓がある。

春には樹齢約250年といわれる巨大なエドヒガン桜(しだれ桜)が咲くことで有名なので、是非その時期に行きたい…。


そして平家谷巡り最後にやってきたのは「つばき園」。
無料駐車場に車をとめ、目の前にある小高い丘に目をやる。

階段を上った上には、通盛神社がある。
以下、説明看板より。

  通盛神社(平家の宮)

 平通盛(教経の兄で平清盛の甥)と妻小宰相の局の木像が祀られ、平家谷の氏神である。
 もと、この宮は、南方にあった一本松あたりから、江戸期に、現在地・万力山の麓へ移転した。
 旧暦八月十三日の祭礼には、海戦で命を落とした平氏の魂が宿る「平家蟹」が、能登原の海岸から山をよじ登って参拝に来たと語り継がれている。

        (略)

 社殿の南端にある自然石が苔むす小さな墓は、通盛主従がひっそり眠ると伝え、赤い御幣も哀愁をそそる。
ちなみに、看板に描かれていた平家蟹。


当然だがここも赤い垂が使われていた。

色々調べていると、通盛と小宰相はとても仲の良かった夫婦だそうで、この神社には夫婦円満のご利益もあるそうだ。
平家の最期を考えると、
怨念やら祟りやら怖い話ばかりに行きつくので、何だかちょっとホッとする話だ。

奥には、説明看板にある通り、石の小さな墓がひっそりと並んでいた。
この谷の人たちに大事にされているのだろう、真新しいきれいな御幣が供えられていた。



さらに奥に進むと、「平家谷つばき園」が。
何故つばきかというと、通盛が愛した花だからだそう。
ちなみに、6月には「平家谷花しょうぶ園」に変わる。
何故しょうぶかというと、通盛がしょうぶ湯に浸かったという言い伝えがあるからだそう。
本当に、この地の人は大切に大切に守ってきたんだなぁと感じる。

園内には多くの史跡がある。
▲通盛手植えの松と言われる
「喜勢の一本松」の4代目。
▲かつての通盛神社があったところ
「古宮」
▲蛭が流した黒い血からその名がついた
「黒血山」
▲八日谷から逃れて来た一行と落ち合い、
ともに生きていたことを喜び合ったという
「喜勢」

その他、かつて通盛神社の礼拝にも使われた「平家さんの井戸」もあったらしいが時間がなかったので(汗;)


ちなみにつばきはというと、まだどの木も咲き初めでつぼみが多く、寂しい感じだったが、品種によって満開の時期が違うので、いつ来たら正解、というのはないのだそうだ。実際、もう咲き終わってる木もあった。(が、今日はやはり正解ではないと思う…)
余談だが、ふくやまけいばの3月にあるレース、「平家谷つばき特別」も、3枠を買えば正解…というわけでもないらしい。

園内には、全国から集めた約400種類、約500本が植えてある。
つばきってこんなに色も形も色々あったのかと驚く。
こんなに植えてもらって通盛も満足かも。。。
そんなことを考えながらつばき園を後にした。


園を出た所にある売店のおじ様に声をかけられる。
「お土産はどうですか~」
つばき園の駐車場は、この売店の前にある。
せっかくなので、ここの名物だという平家餅を買って、平家谷の歴史探索の締めとしよう。
さっそく頬張ると、ヨモギの香りが口いっぱいに広がってやわらかい餅と、素朴な甘さの餡が混ざり合って…ってグルメリポートか!


前回の栄華を極めた宮島の赤は華やかな赤、というのに対し、この谷の赤は、どこか寂しいしっとりとした赤と感じるのは、落ち延びた平氏の無念さが込められているのだろうか。
史実に残っている通盛は、一の谷の戦で討死を遂げたとされ、本当にここで余生を送ったかどうかは定かではない。
しかし、この谷の人々によって守られ、語り継がれ、今もこの地で生き続けているのだろう…


追記。
実は前回もこっそり写っていたような気もするけど、今回から正式に、
新人隊員としてデビュー。
マシャ隊員。

よろしく!
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